昭和45年1月17日 朝の御理解
御理解第1節 「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」
「天地の開ける音」と、どういう事だろうか。「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と。目を覚ますと言う事は、例えば、眠っておるものが目覚めると言う事。いよいよ、難儀が重なったりいたしまして、ようやく目が覚める。例えば放蕩に身を持ち崩した人達がね、家も無くなり財産も無くなって、そして、人の情もうける事の出来ないほどしに( ? )した時に、始めて目が覚めたと言ったような事申しますね。目が覚めると言う事、だから「天地の開ける音を聞いて目を覚ます」と言うのは、そういう難儀な事が起きて、もうどうにもできなくなって始めて目が覚めたというのではなくて、例えば、御理解第二節のね、「先の世まで持っていかれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る」。みてるという事がないと二節に教えておられますように、先の世までも持っていかれる、信心すれば誰でもが受ける事が出来るというその神徳。誰でも受ける事ができる、そういう信心ですよね、そういう信心、そういう信心にこのきずかせてもらう、ですから信心をしておっても、神徳をうけれない信心ではだめだと言う事なる。ね、神徳を受けられる、今までの自分の信心は間違がっておったと、始めていわゆる気がつく、始めて目が覚める。そして、神徳の受けられる信心。そういう信心に、目覚めた時私は今天地の開ける音を聞いた時だと思うですね。今、天地の開ける音と、ですから、ご神徳につながる、ご神徳が受けられる信心に目覚めた時に、今天地の開ける音をきいて目を覚ました時だと思うです。しかも目覚めたのですから、そこから生きた活動がなされる、ね、活き活きとした信心がそこからなされる。活き活きとした修行がそこからなされる。目が覚めたという事はそういう事、目が覚めた、また眠くらきてからまた眠ったと言うこたいかん。うつらうつらじゃいかん。目が覚めたらそこから「サアー」というその勢いのある活動がそこから始まる、そういう信心を私はきずかせて頂く、そこに天地の開ける音を聞く、思いがいたします。えー仏教の色々な仏教があります。あれは、大乗仏教だとか、あれは小乗仏教だとかと言う風に大乗とか小乗とこう申しますね。私はそういう意味で今日のその大乗とか小乗という本当の意味はわかりません。わかりませんけれども、まーこれは私が考える意味での大乗であり、小乗ですからそのつもりで御聞き届頂きたい。小乗というのは、いうならば、あー、病気治し、災難除け信心。いうなら、大難は小難、小難は無難にお祭り返えを頂きますようにと言う事から一歩も出ていない信心を、私は小乗的信心だという風に思うです。いわゆるおかげに便乗した信心なのですねあれは。御利益に便乗した信心。そのお蔭を頂くためにはですいわば、あられもない修行をする。飲まず食わずの修行をいたしましたり、ね、一生逆さまでそのおるといったようなあー宗教があるんですよね。水をかぶったり、それはただそこにおかげを、いわゆる御利益を目指して様々な自分の身を苦しめてでも、それを頂こうをする信心です。いわゆる、御利益だけがめあての信心です。いわゆるお尋ね所とかというような信心。自分の知恵、力では分からんから神様に仏様に助けてもらおうといった信心。そういう信心にいわゆる便乗した信心。大乗、まあ仏教と、ね、というのはそういうものではない。と、ね、信心は御利益を頂く為にあるものではない。いわゆる、四神様が「このかたの道は病気直しや、災難よけの神では無い。心なおしの神じゃ」と、こうおっしゃる。いわゆる、「大乗的見地にたつ」といったような事をもうしますよね。御利益なんかは問題ではないと、心直しの神じゃと。そこで思わして頂く事なんですけれども、信心を頂いておって、例えば難儀な事が起こるとして、信心してどうした事であろうかというような信心は、だから、小乗的なものだと言う事がわかります。ね、だから、信心して例えば、起きてきた、起きて来る事いわゆる「成り行き」ですね。そういう信心を、本当の信心のけいこと思えれる信心。その事をもって本当の事をわからせて頂こう。その事をもって信心のけいこの内容とさせて頂こうという信心。大乗的見地にたった、ま、いわば信心と、なら、天地の大恩を知り、探るじゃないですね、知り、いかされて生きておると言う事は悟るのではなくて、知る。そういうような信心を大乗的なものといっておるような気がするんですけれども、それでも( ? )。いわゆる天地の大恩を悟り生かされて生きておる事を悟らしてもろうた信心。いわゆる「大悟」とでも申しましょうかね、大きな悟り。そういう信心を私は大乗的信心と。そこでいうなら私どもがですね、そういう大乗的な見地にたって信心をさせて頂くと言う事、からです、そういう、ま、今申します、悟りではない知るという事、ね、生かされて生きておるとか天地の大恩を知るといったような意味でおかげを受けてもただ、漠然としたですね、つかみどころのない、いわゆる信心に( ? )してしまう。そこで、思わせていただくのは、小乗的信心、いわゆる御利益に便乗した信心を小乗的と申しましたがそれにですね、便乗しながら便乗していないという信心。日々御取り次ぎを頂いて無事息災を願う、商売繁盛を願う、病気の事を願う、願いながらです、願いながらそれを願っていない様な信心です。
ですから、そのために例えばあの、修行ばする。私は今朝方御夢を頂いておる、おりましたが、大変有り難い御夢でした。御本部の金光様のお宅に何かご挨拶にいっておるのです。そして、そこでいろいろお話をさせて頂いて、ちょっと、こう、その玄関のしたの所のほうを見ると御米が一粒おちているのです。あーもったいないと思うて、私それを拾わせて頂いて、頂いた御夢であった。それから、続いて勝手口のほうから三代金光様の奥様である、金光きく代さまですね、いわゆる、きく代姫と申し上げますが、御霊神様ですから、その方がまだ、御若い姿で勝手のほうから見えられて、「あー大坪さんようお参りでした、これを帰りの汽車の中で読んでいってください」ていうてから、新聞を二枚もってみえる。それが、どうも教徒新聞のようであるそれをまだ印刷したばかりの、二つにまだ折っていない新聞でまだ誰もが目を通していないというような新聞である。それをおみやげのようにして下さった御夢であった。私はまだそれからおかげをいろいろございましたけれどもね、もうとにかく金光様のお子様だとか、御兄弟といわれる方達の中に、やはり、今の金光様のようなご様子の方もあるかと思うと、中には、いうならば合楽ごのみとでももうしましょうかね、私ごのみとでももうしましょうか、その、粋な着物をきた方達、おられるんです。ですから私好みですからはあー、金光家にもこういういわば垢抜けしたというか、金光家にもこういう、まあ、いうなら物分かりのよい、物分かりのよいという分けではないですけど(笑)、まあいうなら、甘えも辛いも頂きわけたといったような人達がおられたのだなあと、私が思うておる所であった。ですから、私共がですね、その、金光家とか、現在の金光教の中身ね、一粒ぐらいのおこめではあるけど、ね、それは、もう本当に一粒の御米ぐらいではあるけども、これは命の、これは、およねはね、ともいう。およねという。いわゆるお道の信心の根ともいわれる、いわゆる教祖の信心に帰れといったような言葉がいわれます。そういう根にもなるようなものを合楽はもっておる。そいうものがです現在の金光教の中に、金光家の中にです、一粒づつでもよいからそれが入っていくという事その事がままに成っていくと言う事、いわゆる、いうなら合楽的信心が、今の金光教の信心の中に入っていくと言う事。そして、勝手口のほうからはですいわゆる、新聞と言う事は新しいという意味ですから、新しい信心がその帰りにはです、合楽にまた入ってくること。ま、教学的信心とでも申しましょうか、片一方神徳的な信心とも申しましょうか、そういう神徳的な信心と教学的な信心とがです、交流して来るこちらから入り、向こうから入ってくるというようなです、それが、米一粒づつぐらいであってもいいから、入ってくるような、交流するようなおかげが頂けるそういう、希望がもてると言う事。そういう、明るい見通しというか、これからの合楽の信心はそういう信心。それにはです、私どもが、「今、天地の音を聞いて目を覚まさなければならない」。その目を覚ますと言う事は「先の世まで持っていけれるほどしの信心、おかげの頂けれる信心」。そこの所が、大変、言葉が表現しにくいですけれども、おかげに便乗した信心ではなくて、おかげに便乗しておる信心。大乗的信心に便乗しているようであって、便乗していない信心。分かるでしょうか、意味が。例えて申しますと昨日はあのように、佐恵子さんの告別式がここで、煌びやかに、盛大に、本当に、ご遺族の方達も大変喜んで頂けるような雰囲気の中に告別式が行われた。それを、信心をさせて頂いておって、どうしてああいう災難にあっただろうかと、どうして、ああいう事であっただろうかと、思う時には自分の信心がただ、小乗的な、小乗的な信心にただ便乗しておっただけの信心であってといわなければならん。ね。その事を通してです、その事を通して信心が分からせて頂くという信心。今朝、その、あの、大乗的信心、小乗的信心と言う事について、いろいろ、大変具体的に頂いた、その時に、さやかさんの事をそういう風に思わせて頂いた時に大きなおいさみがありましたですね、ご神前で。ですからそういう、例えば、いうなら、世の難儀といったような事に直面したその事を信心のけいこの対象として、信心のけいこをしてです、天地の大恩がわかり、生かされて生きておると言う事が悟れる。分かれば悟れる。そこからね、そこから頂けて来るおかげというのは、いわばもう、無尽蔵、限りがないいわゆる、御神徳につながる。ですから、いかに私の信心が大乗的な、金光様の信心は病気直しや災難除けの神じゃ、信心じゃ無いぞと、天地の大恩を悟り、生かされて生きておる事実を分からせてもろうて、その事に神恩報者の心を持って生活させて頂く事が金光様の御信者、御信心、御信者だというておっても分かっておっても限りないいわば御恵み、限りないおかげにです、限りないおかげにつながっていないならばあなたは悟ったのではなくて知っておるだけ、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたようであって、まだ、覚めてはいないのだという事になるわけです。佐恵子さんがまだ、いくつだったでしょうかね、学校行く前、初めてお母さんと一緒にお参りをしてまいりました。その時にお届けされて、田代佐恵子とお届けさせて頂いた時に「あーこの人はまるっきり、椛目の為に生まれて来たごたる人ですね」と私言うたのが、一番印象に残っております。佐恵子というのが丁度ここでお名前を頂いたような名前だったと言う事です。「さ」とはにんべんに左と書いてある。それから恵む。本当にそれから20年経って本当に合楽の為に生まれてきておったような人だという、20年前に私が田代さんにいうた事が、そのままその通りになったような気がいたします。ですから、私昨日親戚の遺族の方達にあいさつにいって参りました時に、ま、いろいろと今日の御霊様はね、喜びの御霊様だと、決して悲しみの御霊ではない。これは、ただ、肉親とか姿形の上からいうとです、ね、それはその、永の別れと言う事になりますから、悲しい事なんですけれども、それは、御霊としてはそれを悲しんでおるとじゃない。20年そこそこの短い命であったと、それこそ、( ? )いったような御霊であったと思うと寂しゅうなる。けれども、この世には20何年であったけれどもです、いわゆる、昨日申しましたように光を持ってあの世に行けれると言う事、その光をまた後にも残しておけれると言う事、そして合楽の為というか、道の為にです、働きの出来る御霊としてです、昇天したと、これは、もう止むに止まれんどうにも出来ないもの、例えば寿命は救い難いもの。けども、魂は救う事の出来れる御霊、いわば肉体は助かることは出来なかったけれども、魂は助かることの出来る御霊、二日目でしたが( ? )
私は休んでおった、本当佐恵子さんの事をお夢頂いておったらもう水が枯れ果てたようで少し水が流れておる、そして、いわば、こう手のひらにも救えない、いや救えないと言う事。もう、願うけど救えないというお知らせを頂いた。それからまた一生懸命お願いさせて頂きよったら、それを塞き止めるように頂いただからそれを塞き止めさせて頂いたら、だいぶしばらくしてからそれが、そこいっぱいによどんだ水ではあるけれども、そこが一杯になった。( ? )先生、おかげを頂いてから、ただいま、意識がでました。というお届けであった。それから、いわば、( ? )ま、事は、いろいろ頂いておりますけれどもね、亡くなります、あの、んー、朝頂いておるのは、あの、なんでしょうか?( ? )気球あの、何て言うんですか?(アドバルーン)アドバルーン。ね、アドバルーンがですねアドバルーンというのは、上に上がる為の勢いで上に上がっている分けなんです、一生懸命上がってる。それを綱で一生懸命引っ張ってあるのですよ。その、アドバルーンのつなが、ぷつっと切れて、あの、その、行く所を頂いた。ですからね、もう、昇天しない、する力の方が大変強いと言う事です。しかもそれは、あてどもなくというのでもなくてね、それこそ、( ? )のようなものではなくて、行く所を知り、ね、はたらくの場を知り、して、逝く御霊であると言うような事を頂いておりましたがね、ですから、例えば、佐恵子さんのその一字においてもです、信心しておってどうした事じゃったじゃろうかと、例えばいうたり思ったりするなら、私はまず、おかげに便乗している小乗的な信心であると言う事。あれは悲しい事、悲しい事だけれども、ここには深い深い、御神意御深慮があっての事とと、思わせていただけて、その事を通して、その事を持って、信心のけいことさせて頂く信心。ね、そこには、いわゆる、限りない、いわゆる天地の開ける音を聞いて目を覚まして、先の世までももっていかれる神徳のうけられる、信心に目覚めさせて頂く、そこを私は大乗的な信心という風に申しました。ね、大乗、そういう大きな意味においてあっての信心であって大きな意味ではない。小さい意味の信心であって、小さい意味合いのものではない。ね、そこらへんの兼ね合いというものはです、私共はその辺の兼ね合いというものをです、実際に合楽ではけいこしていくんだと思います。ね、だから、そのために例えば修行をする、そのために水かぶるもよかろう、断食もよかろう、けれどもそれは大乗的なものを目指してそれなんです。かといってです、「金光様の信心は病気直しや災難除けの神じゃないから」といかにも大乗的見地にたったような信心である事をえらそうにいうてあってもです、限りないおかげがそれにつながっていないならばです、こんなつまらん信心はまたない。何の為に信心しておるか分からん、そういう見地にたった信心であってです、今日もどうぞ無事息災に、大難があるなら小難に、小難があるなら無難に、今日も一日どうぞ商売繁盛の上にと祈り願わなければおられないほどしの、実意を持っての願わしてもらえる信心、それでいてそれをあてにしない信心、とでもいおうかね、そこんところに私はお道の信心、いわば、御取り次ぎを頂いてとか、御取り次ぎを願ってという信心があると思うのです、ね私はいつもこれを思うのですけれども、毎日毎日( ? )お届帳に書かせて頂く、たくさんの字を書かせて頂く、にもかかわらずどうしてこんなに下手じゃろうかと、これは書くたんびに、もう念入れて、念入りに書くんですよね、朝のお届けなんか、それでいていっちょん上達せんどうしてこんなに下手だろうかと思う、自分で。いうなら自分の字を見てから、( ? )と思うです。本当に。もうどうして旨みの無い字じゃろうかと、どうしてここへんがもうちっと格好よか書ききらんじゃろうかと、上手な人の字を見てそれ思うです。ね、私共の生活態度というものはね、いつもそれでなければならないと思う。信心は、何か最近ではあの、坂本繁二郎さんの事を「画聖」と呼んでおるですね、「画聖」と呼ばれる人は昔「雪舟?」という人がおりましたよね。その人の絵に匹敵すると言う程しの絵、このごろ一年のなんか追悼があってましたが、それこそ、皆がその絵を見て素晴らしい、素晴らしとこういうておるけれどもですね、たびたび書かれる過去の絵というものは、全部捨てたいといわれるほどしだったそうですね、自分の気に入った絵が一つも無いち、いわゆる、りっしんのさく?ちいうたものはないち、自分の絵にほれぼれするような思いをする事は一遍だってないち。ね、そこにいわば「画聖」といわれるほどしの私は絵書さんだったと思います。ね、私どもは、( ? )、もすると楽なほうへ、楽な方へとその思いを置いていきます。何か( ? )が下がるような事柄がありますと、それをおかげとこう思う。今日私はそれを御神意に頂きましたがあの、ラムネですね、昔、今もありましょうが、ラムネの上にこうレッテルがはっちゃりますたいね、レッテルが、あれを破って( ? )いわゆる、ラムネを飲む時には「すっ」ちいうでしょう。神を破ってビスっといったような信心ではだめだと言う事です。この辺が非常に難しいですね、2、3日前のいうなら大きな信心を頂きましたねあの、15日の朝の御理解。ね、その事のこの事をね、今日はよく、頂きます所の大乗的、小乗的と信心の兼ね合いといった所がよく分かります。ね、信心ではないと思う所を平気でこう破って、そしてブスッといくような信心ではなくてです、私共は絶えずどれだけ書いても、どれだけ書いても、どうしてこんなに上達せんだろうかというようなものがそこにあるならば、あなたの信心はよい信心が続けられておると言う事になるのです。ね、それでいていよいよ大乗的な信心、ね、本当に神恩報者のその思いが、真がです、世のお役に立たせて頂こうという実動的な物になる。そこにはです、生きた働き、これは御利益ですけれども、その御利益とは願った物でもなく頼んだものでもない、限りなく流れに流れて来るほどしのもの、それを私は御神徳と思う。ね、だからその御神徳、そういう信心はです、信心すれば誰でもがうけられると言う事、信心すれば誰でも受けられると、と言う事はです、今天地の開ける音を聞いて目を覚まさせて頂いての信心なのです。そういう信心をすれば、誰しもが御神徳につながる、御神徳が受けられると言う事なのです。ただ、御利益だけに、災難おきると、どうした事じゃろうかというだけにとどまる信心であったとするなら、御神徳につながるはずは絶対にありません。それは小乗的いわば、いわば信心の堕落と、ま、という言葉でいうてもいいでしょう。ね、そういう信心からです、ね、そういう信心であって信心ではない。と言う風に私申しましたね、それであって大乗的信心であって大乗的ではない。その辺の兼ね合いの所をです、金光教では、教祖様は教えてあってくださる。しかもそれは御神徳につながる信心。「今天地の音を聞いて目を覚ます、はー信心とはそれだ、そこだと気づかせて頂く信心。そういう信心をです、私は気づかせて頂いた時に初めて天地の開ける音を聞いて目を覚ました時だと思うのです。 どうぞ